世の中というのはおかしなもので、才能やら磨き抜かれた技術とは別の部分で給料が決まったりする。
例えば業種が変れば、給料の高低が変化したりするわけです。
これは給料を貰う人にとっても、サービスを受ける人にとっても、実は不幸なことです。
変な話しですけど、あのオバサンが駄目な高級官僚になれる程度の能力と、奇跡のレジ打ちの才能を持っていたとしたら、選ぶ職業は恐らく高級官僚です。
だけど僕はあのオバサンにはレジ打ちしてもらったほうが嬉しいですし、みなさんも偉大な才能が世の中から失なわれてしまうのはもったいないと思うことでしょう。
それでもあのオバサンが選ぶ職業は高級官僚なのです。
これって不思議でおかしな話しだよなーって、僕はしょっちゅう思うんですけど、みなさんはどうでしょうか?
waergj - コトリコ (via hetmek) (via shoka)
泰: いや、レジ打ちという代替可能な能力は幾ら長けててもある程度以上の評価には成り得ないでしょう。もし、それが代替可能な領域を越えて、ある種のエンターテイメントにまで昇華しているのであれば、高級官僚をやりつつ、「レジ打ちスーパーテクニック」的なDVDでも出せば良い。そうすれば例えその人が高級官僚にギリギリなれる程度の能力しかなかったとしても、官僚のイメージアップに繋がると国からも重宝されることでしょう。
というのは1つの例えでしかないけど、この話って象徴的な気がするのよね。美術作品の一般的な評価を見てても、こういう労働重視というか目に見えるテクニックや手数(物理的労力)重視の評価をする人が多くて気になる。いや、それを重要視するだけならマシだけど、それしか見てないと言うか、不可視領域の評価、特にリスクを負う人に対しての評価が出来なすぎな気がする。レジ打ちが人より長けている人も、絵作りが人より上手い人も、社会においてなんらのリスクも背負っていない事に気づかないといけないし、リスクを背負わない代替可能な能力がそのコミュニティにとってどこまで存在価値があるのかを考え直してもらいたいです(価値がないというのではなく、価値の逆転はあり得ないという話)。
ちなみに高級官僚がリスクを負う代替不可能な人材を欲しているか否かは当該コミュニティの資質の問題であって、資本主義国家における社会的評価の話とはまた別の話だと思う。つっこまれる前に、一応。